第3回「対位法とポリフォニー——モーツァルト(1)」

1782年の春、モーツァルトはスヴィーテン男爵と出会います。そして毎日曜日に開かれる男爵のサロンでバッハやヘンデルの音楽に親しむようになりました。この頃のモーツァルトは故郷ザルツブルクから新天地を求めてウィーンにやって来てまだ1年ほど。オペラ『後宮からの誘拐 K.384』を作曲して大成功を収め、新進気鋭の作曲家としてウィーンの人々に受け入れられ始めた年でした。モーツァルトは恋人との結婚を切望する、まだ26歳の青年でした。

ところで、バロック時代の音楽は、対位法と呼ばれる技法に基づいた多声音楽(ポリフォニー)でした。対位法とは旋律の重なり、絡み合い方を規定する複雑な規則で、緻密な計算・構成力を必要とする面倒な作曲法でした。一方、この頃の音楽シーンの主流は和声法と呼ばれる技法による和声音楽(ホモフォニー)でした。和声法とは、今風に言えばコード進行を作り、その上に旋律を載せていく方法で、いくぶん感覚的・感性的に音楽を紡ぐことができました。

とはいえこの時代、対位法は完全に過去のものだったのではありません。音楽界の長老たちは依然として対位法を金科玉条とし、特に本式の宗教音楽は対位法に基づくべきと考えていました。しかし、対位法がそういう既存の権威と一体化していたために、かえって新しい世代の音楽家からは一層古くさく役に立たないものと感じられたようです。

実は、モーツァルトは14歳だった1770年、イタリア旅行の際に著名な作曲家・理論家のマルティーニ神父から古風な厳格対位法の手ほどきを受け、それをものにしていました。彼はバロック音楽に無知ではなく、若くして対位法を駆使した教会音楽作品を書いてさえいました。

しかしスヴィーテン男爵のサロンで聴いたバッハやヘンデルには、モーツァルトにとってもやはり大きな意味があったのです。対位法に熟達していたモーツァルトだからこそ、バッハの作曲技法の高さを深く理解することができ、それを自己の作品に活かしていく契機となったからです。そしてそれ以上に、対位法を使った複雑な器楽曲に多くの人々が聴き惚れる様を見たことは、対位法が過去の終わった技法ではなく、今の聴衆にも訴える力があることをモーツァルトに改めて認識させたと思われます。

それから暫く、モーツァルトは対位法を縦横に扱う必要がある技巧的な形式の作品、つまりフーガの作曲に熱中します。その到達点が、1782年から83年に自身の結婚を期して書かれた『ミサ曲 ハ短調 K.427』(未完)です。このミサ曲ではバッハやヘンデルの影響の下、ポリフォニーの技法が多用されており、特に「グローリア」の最終節< Cum sancto spiritu>では190小節にも及ぶ重厚な大フーガが展開されます。このフーガは、「十数年にも及ぶモーツァルトの教会音楽におけるポリフォニーの書法の集大成的なものに他ならない」(小栗克巳)と評される、圧巻の名曲です。この曲の、見方によっては時代錯誤なまでの対位法技術の誇示を考えると、そこには教会に雇ってもらうためのアピールの意味も含まれていたのかもしれません。この時、モーツァルトは定職がなかったのですから。

【追記】
モーツァルトがフーガの作曲に熱中していた頃、フーガと共にいくつかの幻想曲(ファンタジア)が生まれています。その中でも『幻想曲 ニ短調 K.397』は第一級の作品。この曲はカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(C.P.E. バッハ)のスタイルで書かれていると言われています。モーツァルトは、C.P.E. バッハからはソナタなどより広い作曲分野で大きな影響を受けているようです。

【参考文献】小栗克巳「モーツァルトのポリフォニー作品への一考察〜教会音楽作曲家としての生涯を探る〜」



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