第2回「時代錯誤な音楽を偏愛した男」

フーガという形式はJ.S.バッハにより完成されましたが、バッハは存命当時、それほどメジャーな音楽家ではありませんでした。

18世紀半ばまでの、音楽史で「バロック時代」と呼ばれるバッハが活躍した時代のドイツの巨匠といえば、多くの分野で厖大な作品を残したテレマン、劇場音楽の人気作家だったヘンデルが挙げられます。それに比べてバッハはライプツィヒの聖トーマス教会の楽師長という地味なポストにあり、作曲家というよりオルガンの専門家・即興演奏の大家として知る人ぞ知る存在だったようです。

ですからバッハの死後、その音楽はさほど顧みられることはありませんでした。しかも、バロック音楽自体が急速に廃れていきました。後に「前古典派」、「古典派」と呼ばれる新興の音楽家たちが音楽シーンを席巻していったのです。これには音楽の流行というよりも、社会全体の変化が影響していました。

バロック時代は、ほぼ絶対王政の時代と重なっており、音楽家は宮廷か教会に所属し、その内容もそれに適したものでした。つまり大勢の人に受けるものというよりは、上級の趣味人たちを相手に作られていました。

しかし18世紀半ばには、社会は急速に近代的な国民国家の創出へと向かっていきます。そして下級貴族を中心とした市民階級が勃興。音楽も“宮廷と教会”ではなく“劇場とサロン”で消費されるものとなっていきます。新しい時代の市民は、複雑で込み入ったバロック音楽ではなく、シンプルで躍動的な、自由な音楽を好みました。こうしてバロック音楽は「古い時代の音楽」と見なされ、バッハやフーガ形式は時代錯誤なものとして、見向きもされなくなっていったのでした。

といっても、バッハは2つの理由から忘れ去られはしませんでした。第1に、バッハの息子たちが各地の宮廷で音楽家として活躍していました。特に、次男カール・フィリップ・エマヌエルはプロイセンのフリードリヒ2世の宮廷に仕え、当時はバッハといえばエマヌエル・バッハのことを指しました。他にも、ヴィルヘルム・フリーデマン、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ、ヨハン・クリスティアンらが音楽家として大成します。このバッハの息子たちを通じ、バッハの作品は命脈を保ちました。

第2に、バッハには熱心なファンがいました。バッハの音楽は万人受けするものではなく、存命中の名声もそれほどではなかったので、却って熱心なファンを獲得したのかもしれません。そんなファンの一人に、ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵がいます。

スヴィーテン男爵はオーストリアの外交官として各国に赴任し、その中でプロイセンのフリードリヒ2世の下に赴いてバロック音楽を知り、ヘンデルやバッハ、その息子たちの音楽の楽譜を収集します。バロック音楽を偏愛するようになった彼は、オーストリアへの帰国後、バッハとヘンデルを中心としたバロック音楽を奏でるサロンをつくります。彼はウィーンにいたほとんどの音楽家と知り合いでしたから、バッハをウィーンの音楽シーンに伝え、ひいてはバッハの伝承者として重要な役割を果たします。そんなスヴィーテン男爵を通じてバッハの音楽に強い影響を受けた音楽家の一人が、モーツァルトです。

 

【追記】
「男爵」というのは下級貴族です。ですから、地代収入だけをアテにして優雅な宮廷生活を送れるような貴族ではなく、ちゃんと仕事をする必要がありました。今の日本で言えば官僚に当たるような存在です。スヴィーテン男爵はオーストリアへの帰国後、帝国図書館の館長となり、死ぬまでその職にありました。音楽サロンを主宰していたのもこの職の傍らでした。彼は世界で初めて図書館にカード式目録を導入したことでも知られております。

 

 ↓カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(C.P.E.バッハ)「ファンタジア嬰ヘ短調」。

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