第4回「黙殺された傑作——モーツァルト(2)」

モーツァルトはウィーンで、教会にも宮廷にも所属しない、フリーランスの音楽家として生きていくことになります。それは少しばかり時代を先んじすぎた茨の道でした。しかしモーツァルトは、数年間は華々しく活躍します。活動の中心は会員制の演奏会。貴族の私邸で行われる予約演奏会でした。1784年、会員数は174人で、当時の貴族や裕福な市民がずらりと名を連ねていました。この“ファンクラブ”の会費がモーツァルトの定期収入でした。作曲活動も精力的に進め、オペラ『フィガロの結婚 K.492』はプラハで圧倒的な成功を収めます。また、父親の反対を押し切って恋人コンスタンツェと結婚し、ささやかな家庭を築いてもいました。モーツァルトは公私ともに独り立ちし、一見順調なキャリアを積んでいるかに見えました。

しかしその活躍の一方で、モーツァルトは次第に経済的に困窮していくようになります。ファンクラブの会員が徐々に減っていったからです。予約演奏会を開催しようにも、思うように人が集まらず開催が難しくなりました。さらに、長男と三男は生後すぐに亡くなり、家庭にも暗い影が落ちていました。

1787年、モーツァルトはウィーンの宮廷室内作曲家の称号を受け、7年間も待ち望んだ栄誉と定収を得ました。しかし直後に生まれた長女も半年で夭折。雇用関係のない称号だけの宮廷作曲家の年俸は僅かで、モーツァルトの経済状態が好転することはありませんでした。もはやモーツァルトは、返すアテのない借金を続けるより他にどうしようもない状態へと陥っていました。

ところが、この泥濘にのたうつような窮乏と哀しみの暮らしの中で、モーツァルトの音楽的霊感はむしろ冴え渡っていきます。1788年のたった2ヶ月ほどの間に、後に「三大交響曲」と呼ばれる3つの交響曲が完成。中でも『交響曲第41番<ジュピター> K.551』は古典派交響曲の到達点を示す記念碑的傑作です。特にその終楽章は見事な対位法が駆使されており、コーダ(終結部)では主部で登場した5つの旋律がひとつに繋がり、5声のフーガになだれ込みます。目眩く転調の裡に旋律が緻密に絡み合い、しかも疾走感溢れる壮大なフーガが展開されます。モーツァルトの最高傑作の一つでしょう。

しかしこの傑作はウィーンで演奏された記録がありません。ウィーンの人々はデビュー当時にはモーツァルトを持て囃したのに、彼が真に巨匠の域に達した時、既にその音楽に飽きていました。この大作がモーツァルトの生前一度も演奏されなかったことはないでしょうが、演奏も評判も全く記録にないことを考えれば、黙殺されたのです。ファンクラブの会員は、1789年にはスヴィーテン男爵たった一人になっていました。

とはいえ、ウィーンっ子たちの聞く耳のなさを嗤うことはできません。現代の我々も、音楽史には数多の傑作が犇めいているのを知りながら、10年もすれば時代遅れになってしまう音楽を喜んで聴いているのですから。

1791年、モーツァルトは困窮のうちに35歳で亡くなりました。実務能力のないその妻に代わって葬儀を取り仕切り、葬儀費用まで出したのはスヴィーテン男爵でした。

 

【追記】
最近の研究では、晩年のモーツァルトはそこまで貧乏ではなかったのではないかと考える人もいます。借金がたくさんあったにしても、それなりの収入もあったと見積もられるからです。しかしながら矢継ぎ早に子どもを亡くし、また自信作であった交響曲も演奏の機会を与えられなかったのは事実です。彼の晩年は、思うままにならない不遇なものであったのは間違いありません。

 【参考文献】海老沢敏『改訂 モーツァルト(大作曲家・人と作品3)』

 

↓『交響曲第41番<ジュピター> K.551』の終楽章の驚異的な対位法技巧の解説。英語ですが、英語がわからなくてもそのすごさは伝わると思います。

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